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(2009-11-7)

ほうとう。

「お前なんかもう知るかぁっ! 好きにせえっ!! 」。会社の応接室、K社長と若き僕の二人きり。僕の前に座っているK社長はそう怒鳴って、ロウテーブルの上に置いた退職願を「バン!!」と張り飛ばした。ふた月近く保留されていた僕の退職願を。 ( 会社を退職したら、しばらく休みます。そうしたらどこか料理屋サンを探して厨房に入って料理を勉強するつもりです。いえ、東京には帰りません。新潟で暮らすつもりです。いえ、彼女の為じゃありません。新潟の方が僕のライフスタイルに合ってると思うからです。東京の家族ですか? 親父達は僕が新潟で暮らすのを喜んでくれてるようなので、別々に暮らすと思います。東京なんて近いですから。違いますっ、本当です。ライバル企業に移ったりする気なんて全くありません。 いつか自分はお店をしたいので、だから料理を勉強したいんです……)。建設業界、 営業マンとして査定は連続してA+だった。26、7で年収は700、新築の2LKDアパートの家賃は1万以外は会社持ち。寒冷地手当てで灯油代も余裕で出た。年間、3日の内1日は休み。株価はいつも高い。国内はもとより世界中に支社や工場があり、数万人の社員が働く。その中心の方にいる若いやつが、突然「会社を辞めます。」と退職願を出したと思ったら、しばらく無職をしてフリーターになって料理勉強します、と社内で公言したので役員や社長は誰も信じずに、ライバル企業に僕が抜かれた、とずうっと思われてた。社長の右腕の部長は僕に「本社の人事部はお前に、新宿でゆっくり休め、ノルマなんか無い9時5時で帰れる部署を用意してあるから、しばらく休職しても良いから、と言ってるんだぞ。東京がイヤで新潟にいたいならそれでも良い。こっちでもお前の好きな部署にいろ。今までみたいに働かないで良い。了承は取ってある。どんなに恵まれてるか分かってるのか。もう一度思い直せ。」と言ってくれた。 自分と同年代の社員が、会社に望ま
れない存在として辞めて行くのはよく見ていたので、部長のこの言葉は一番僕を悩ませた。(…会社が…新潟の社長や部長がここまで言ってくれてるのに、オレはブッチして辞めていいんだろうか…)と。その間、普通に出社していたが正直、夜は良く眠れない日々が続いた。やっぱり料理なんて無理なのかな…このまま会社にいれば良いのか…って。東京本社は新宿副都心の高層ビル、31Fから36Fがオフィスだ。夜景の美しさは宝石のよう。僕が高校時代を過ごした歌舞伎町や大久保が下界だ。まるで天国と地獄みたいに雰囲気が違う。ここにいる人達はあっちのシビアさは理解出来ないな。たまに本社に行くと、重役達と美しいマホガニー壁の廊下ですれ違う。重役着きの、それは美人でスタイルの良い秘書が、目が合うと優しげに微笑む。僕も合わせて恥ずかしく微笑む。…あそこに帰るのか、実家から新宿まで30分だしな…それも良いな。でももっと良いのは…、新潟で熱い厨房に入る事だ!、と信じていた。 悩みに悩んだ末、真夜中に東京に電
話してオフクロに相談した。同じ会社のOLの彼女には相談出来ない。言っても「新潟にいて。」と答は分かってるからだ。僕は「K社長や本社のM人事役員はここまで言ってくれてるんだ。退職願も受け取ってもらえない。今は…辞めないべきか迷ってる。ずうっと寝れないんだ。どうすれば良いと思う…」と訊いた。オフクロは少しも迷わずに「自分の心の声に耳を傾けなさい。それが一番正しい答よ。」とだけ。 電話を切った数分後には自分の答は分かった。信じられないほどスッキリした気持ちになって良く眠った。その翌日のK社長との対話が冒頭のもの。あの時、K社長を本気で怒らせた。 会社の皆さんは立派な送別会を開いてくれた。が、若い社員の方は信じてくれたし理解もしてくれたが歳上の上司達はなかなか理解してくれなかったし、まだ僕が何処かの同業企業に行くと思っていた。それから1年、プー太郎もしたしニートもした、グアム旅行や国内旅行を満喫した。そして万代の厨房に鍋洗いのバイトを見付けて採用。4年半後にバイクスが出来た。 今は関東の、新潟の数倍規模の数百人社員のいる支社の社長に抜擢され続けているK社長…グループでも切ってのやり手…は、ようやく僕を理解してくれて本当に嬉しい。今は新潟帰郷の際、御家族で見えて下さる。御家族に「コイツはなぁ、ウチの一番の若手だったんだ。俺の言う事聞かない生意気だったが、まぁようやってた。…エツジ、オレの故郷新潟にい続けてくれてありがとうな。」とお話していた。単身赴任の社長に地元のおけさ柿を送ったら、そんなの不要なのにいろいろ送り返して下さった。その中に何故か勤務地じゃないのに群馬の「ほうとう」が入ってました(笑)。 今日、それを賄いにして頂いた。
今まで「ほうとう」を美味しい、と思った事は一度も無かったけど、今日のほうとうは本当に旨く熱く、胸に染みる美味さだった。 いつまでも、親や兄弟ってのは有り難い。これで明日もがんばれるな…。




(2009-11-6)

青空突き抜けた。

数日ぶりに、抜ける青空に恵まれてます。気温も低くは無く、早朝から白鳥達が編隊出勤して空は大にぎわい。白鳥に関しては、もしかしたら地球温暖化の恵みを受け易いのかも知れません。雪や冬の嵐にさらされる機会が、明らかに少ないのですから。 週末前の仕込みに早く取り掛かりたいものの、納品がまだ始まらず。後で溜まるのに、ちょいビビり…。




(2009-11-6)

ENGINEの齋藤さん。

去りし今夏、僕は車を替える時に対象にしていたその車の評価をどうしても訊きたい方がいた。ドイツ車が名実共に…ブランド力、人気力、技術力…地上で一番のこの現代世界において、イタリア・フランス車(通称イタフラ。)をこよなく愛し、フェアに自動車批評をし続ける自由な精神の持ち主、齋藤浩之さんだ。ENGINE編集部所属の超有名編集者だ。僕はエンジンを読み始めた時から好きだった。自由…僕には最も重要な言葉と意味を持ってる。 僕はEメールで質問したりするのが苦手なので平日の朝10時、新宿の矢来町の新潮社エンジン編集部に電話した、迷わず。今までも何度かモノ選びに真に迷った時、各出版社の編集部の担当の方に直接、そのモノやジャンルの評価や状況を尋ねて来たのでさほどに遠慮は無かった。皆さん、こういう、どストレートな読者に本当に丁寧かつ優しく話に乗ってくれるのだ。話が弾んで長くなる事も結構ある。僕が勝手にそう思ってるだけ…?。
まぁ、あの夏の朝もそうだった。夜が尋常で無いほど遅い「編集部」ってお仕事は、朝が遅い。僕の電話に出た方はこう言った。「これから買う予定の車のお話が聞きたい?分かりました。でもまだ編集部には僕一人しかいないんですよ。私も今から成田に行かないといけないんですが。エッ、齋藤と話したい? 私が齋藤です。」…電話に出てくれたのは誰あろう齋藤浩之さんだった。 時間が少ない中、齋藤さんは僕のどうしても知りたかった事に実に的確かつ優しく教えて下さった。そして最後に「アレはとても良い車ですよ。その車は買いでしょう。」とおっしゃって、僕の意志は固まった。こんな相談に丁寧にお付き合い下さった齋藤さんに心から御礼を申した後、齋藤さんはこう言ってくれた。「参考にしてもらえて良かった。 素敵な自動車ライフを! では」と。 このエピソードを、当該の車をもともと最初に強烈に奨めて下さっていた新潟No.1のTVカメラマンHさんにお電話で話したところ…「…いーい話やぁ…リョウちゃん、いい話やぁ。齋藤さん、そうおっしゃったか…。今おれ、鳥肌立ってるわ…」との事だった。 真夜中、ENGINE最新号を読みながらドーナッツをモグモグ食べるは至福の喜び。一生手に入れられない車や腕時計ばかりだとしても。 今日もありがとうございました。おやすみなさい!