Something about“James Bond".
今年最初の3連休ありがとうございました。
今日はお店とは全く違う話を。
皆様の殆んどの方は「ジェームズ・ボンド」をご存知の事でしょう。イギリスの対外諜報機関MI6所属の凄腕スパイ・エージェントであり、モデルはいても架空の人物である事も。そして、その作者は同じく諜報機関エージェントの過去を持つイアン・フレミングである事も。 ですが殆んどの方はイアン・フレミングが何をしていたどのような人物で、どのような経緯で「ジェームズ・ボンド」が生まれたかをご存知でない事でしょう。全く生意気ながら今日はそれをお話しします。 映画ファンにはお役に立つ情報です。
1945年、WW2末期のヨーロッパ。海軍情報部隊の上級将校だったイアン・ランカスター・フレミングは時のイギリス首相チャーチル直下、海軍少佐デズモンド・モートンが指揮する戦時超権的極秘情報機関[Mセクション]が任務遂行を帯びた危険な「ナチスの金庫番マルチン・ボルマンのベルリンからロンドンへの極秘拉致誘拐作戦」の作戦全体の指揮官を努めました。この作戦は秘密裡の成功に終わりましたが、多くの日本人には知られていません。
歳よりも遥かに若く見えるイアン・ランカスター・フレミングは36歳。長身、黒っぽい髪、ハンサムな風貌、オックスフォード・イートン校時代はラクビー選手で2年連続最高殊勲選手だったフレミングの前では、たいていの女性が彼の深い魅力に抵抗する力を失ってしまったそうです。スコットランドの王家の一つ、ジョン・オブ・ゴーント直系の貴族出身の一見上流紳士気取りの優男の外見でしたが、その内面は勇猛果敢で決断力があり親切、思いやりもあり、最高度の危険な秘密作戦を指揮するに値する人間であり、鍛えられたコマンドでもありました。 この作戦の立案者はD・モートンでしたが、作戦の設計、実行責任者はフレミングでした。現場指揮官は若干21歳のクリストファー・クライトン。1996年にこの作戦の全貌を発表した人間です。共にドイツ語が堪能でした。
この作戦ではドイツ側、イギリス側の関係者それぞれにA・A・ミルンの書いた「くまのプーさん」の登場キャラクターの名前がコード名として付けられました。ヒトラーはラビット、ボルマンはピグレット、チャーチルはティガー、モートンはアウル、クライトンはクリストファー・ロビン、フレミングはプーでした。ですがそれと別に偽名が必要でした。フレミングが自分で選んだ偽名が「ジェームズ・ボンド」だったのです。これはフレミングが古い本から無駄借用した名前です。1944年11月にカリブ海にいたフレミングは、古典的な鳥類学の本「西インド諸島の鳥類フィールドガイド」を見つけます。その本の無名の著者が「ジェームズ・ボンド」だったのです。
WW2戦後、フレミングが「007」作品を発表した時、ジェームズ・ボンドの名前の由来を訊かれたフレミングは「自分が考えつく、もっとも平凡で退屈な名前だから」と主張しましたが、実際には1945年にはフレミングこそが「ジェームズ・ボンド」であり、彼はこの名前を胸に決めていたのです。
作戦は即座に関係者の間のみで「オペレーション・ジェームズ・ボンド〜OP・JB」、ジェームズ・ボンド作戦と名付けられました。これは日本なら「渡辺ひろし作戦」とか「本間太郎作戦」的な感じで、作戦名からは作戦の内容は全く分かりません。
僕の拙文の最後に…。
ベルリン東部に位置するミュッゲル湖に着水、流れ出るシュプレー川を下りベルリン市街に潜入したフレミングが遂にボルマンと対峙した時、フレミングが突然流暢なドイツ語で話し始めました。
「自分がこの作戦の指揮官である。答えは二つに一つだ…この場で死ぬか、それとも我々と一緒に来るかだ。」!
チャーラッチャー♪チャーラッチャー♪(007のテーマ)…おそまつ様でした(オバカなテーマ曲以外は全て事実デス)。