真日本縄文対渡来弥生、縄文の末裔 マタギ、熊狩りとブナの守り人、誇り高き東北の地まで。
チョモランマ、K2、マッキンリー、厳冬鹿島槍の墜落、厳冬剣岳の深夜の植村直己さんとの登頂レース、40年前の奥三面岩井又沢完登、後ろ立山の熊ともえ投げ…その腕の中で死んで行った山友の数は二十余名、墜落滑落も見届けた友の死は三十を越える…生と死の凄まじい経歴を生き残って来たアルピニスト Wさんのバックアップで、奥三面の深山で過ごした先週月曜日から一週間。
命を失う機会が幾つもあったのに、見るもの触れるもの聞くもの全てが格別に美しい時は幻どころか「あれが現実で日常が虚構」のように、インセプションのように感じ続けています。
2014年4月26日、村上市荒川の自宅から車で数分の里山の河川敷公園で小池さんおばあちゃんが熊に襲われ死亡した日から数日後。熊の存在を求めて独り山々を探索を始め、こんなところまで来てしまった。
その間、商売に得どころか全く無駄どころかマイナスにしか成らぬほど熱狂的に熊、マタギ文化の独学を続け、狩猟免許銃猟罠猟を取得し、さらには昨年からは三面のさらに奥、奥三面にまで単独山歩きの域を深めていました。
熊、熊狩り、マタギ文化、そして核心の縄文文化まで知識の求めが到達するとは当初思いもしませんでした。
約3500年前の縄文時代晩期の日本に水稲作を武器に九州を手始めに渡来して来た渡来系弥生人は、土着の真日本縄文人に稲作の場所の奪取と新たな支配層への従属を求めます。もちろん縄文側の対抗はありますが、特に西日本では早々とその支配下と影響下の軍門に下ります。
支配階級への従属と生産量の差と上納は即ち階級社会化と差別の具現化でした。
「ヤマト化」する西日本と離れて地の利もある東北(新潟北部を含む)には、深いブナの森が広がり、渡来系弥生人も容易に東北縄文を落とせず、東北の弥生化は時間が掛かります。
そもそも縄文文化は我々がイメージするより遥かに先進的、平和的かつ永続的な文化で現在、欧米の一流大学の文明研究者達が密かに来日し、地球史上最も永続した文明である縄文を最新研究している程です。僕個人的には、マタギ集落に伝わる特殊な「山言葉」こそが、文字化されなかった「縄文語」であると確信しています。
縄文文化は狩猟と漁猟と農耕(但し稲作でなく栗、ブナ等の堅果類を森林農耕していた)に基づいており、「土地の恵み、また土地そのものは土地の神からの授かり物であり、生きる者(動物鳥類昆虫木々まで)全てが平等に授かる権利があり、一握りの権利者が独占しては行けない」という思想信条に満ちた文化でした。マタギ集落で、集落の精鋭が果たした熊狩りの産物を完全に戸別均等割りするのはこの為です。
それゆえ、自然環境を激変させ(森林を伐採し田圃化し広い面積と水利を要する)、かつ非常に単作短命な稲作とその生産と上納に基づいて臥される支配層への従属と差別社会の出現は絶対に相容れないものでした。それゆえ弥生人達は狩猟が得意でよく肉を食べれる縄文人達を(獣は穢れているとして)「肉を食べる穢れ多き者たち」として貶めようとしましたが、当の縄文人達は肉は穢れ多いどころか、山の神が授けてくれる貴い食料であると思っていました。
縄文人達は肉体的に頑強で狩猟漁猟採集に強く(弥生人より数センチ身長が小さいものの凹凸の明確な美男美女が多い)戦闘能力も高いものの、弥生人と違い非常に争いや無駄な殺しを嫌った為、東北でも緩やかにヤマト化しましたが(東北より西日本に差別慣習が強く残ったのはヤマト中央集権の影響の強弱が大きい)、その思想信条と狩猟技術、狩猟武具、堅果類の処理技術や生活建築様式は山深い「マタギ集落」に純度深く生き残りました。
奥三面も正にそうです。
奥三面の深い山を歩く時、または深夜1時の、音がするようにビカビカと輝く星空を見上げる時、誇り高く優しい真日本的な縄文とその直系末裔のマタギ集落の流れへと、豊かに思い浮かびます。
いずれまた、奥三面へ。